ロマン・ロランと生きる

フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)に関する情報を発信するブログです。戦中・戦後の混乱期に幼年時代を過ごした人々の間では、ロランは必読書だったそうです。人生の師と仰ぐ人も少なくありません。現代の若者にはあまり読まれていないようですが、ロランと同じ精神の家系に属している人は少なからずいるはず。本ブログがロランの精神的兄弟たちを結び付ける場になれば幸いです。

『ロマン・ロラン全集【19】エセーⅡ』みすず書房


政治と芸術のエセー

人生は進歩のための、
前進のための絶えざる闘いです(P68)


みすず書房ロマン・ロラン全集』の第19巻はエセーⅡとして、政治論Ⅱ(1935~1944)と芸術論(1891~1940)を収める。具体的な収録内容は次の通り。

【政治論Ⅱ】
①いかにして戦争を妨げるか?
②新聞・雑誌掲載論文、メッセージ、アピール等

【芸術論】
③演劇について
④真であるがゆえに私は信じる
⑤アグリゲンツムのエンペドクレス
⑥道づれたち

【政治論Ⅱ】に収録された文章は1935年以後に発表されたものに限られるが、ロラン最晩年の社会的・政治的発言をまとめた資料として貴重である。『ロマン・ロラン全集』第18巻の「政治論Ⅰ」を補うものだ。

政治や宗教の分野には常に狂信者がいる。彼らは的外れな言いがかりや事実無根の中傷で世論を本質から遠ざける。そして自分と異なる考えを持つ人物を黙らせるために、嫌がらせや脅しを繰り返して恥じない。

しかし最も始末が悪いのは、形骸化した常識と道徳をまとう妄信者だ。彼らは自分には分別があり、物事を正しく判断できると思い込んでいる。現状維持こそ彼らの命題であり、平穏を乱す恐れのある人物をたしなめ、冷笑する。社会の大半を構成する彼らのある人は無知のため、ある人は無気力のため、ある人は慢心のため、ある人は虚栄のため、ある人は貪欲のため、ある人は臆病のために、沈む舟から降りることができない。舟が浸水していることすら認めようとはしないのだ。そして自分だけでなく、周囲の人をも破滅へと巻き込んでいく。病理は深い。70歳を過ぎてなお、こうした人々との言論闘争を続けたロランの精神力に脱帽する。

一方、ロランの【芸術論】は人生論としても読めるものが多い。本書で特に興味深かったのは、ロランが22歳のときに執筆し、生涯自分のそばに置いて発表しなかったという論文「真であるがゆえに私は信じる」だ。ロマン・ロランという人物を知るうえで必読の文献だろう。

訳者の蛯原徳夫は、「この論文はロランが青年時代に、それまでの形式的な信仰を失うことによって経験した精神的危機を克服したあげくに、『自分自身の生の公式』として哲学的に定着させえた信条で、いわば新しい信仰告白」であり、「以後のロランの精神的な発展や展開は、すべてその形而上学的認識を軸におこなわれる」と指摘。「ロマン・ロランというまれに見る巨樹にとって、この小論文のもつ意義や価値はすこぶる大きなものと言わなければならない」と解説している。

「『神』は全体であり、また偏在する」ということ、そして「死」に関する記述には深く共感する。この世に生きるすべてのものが例外なく死を経験する。死は避けがたい強烈な事実だ。自分の死と向き合い、死の顔を見つめ、死とともに暮らすことで、人は自身の実体を見極め、己を離れて真実など存在しないことを知る。死を理解することは生を理解すること。死を忘れた人生は欺瞞の雑草に覆われ、嘘に道を見失う。

「道づれたち」ではシェイクスピアゲーテ、ルナン、トルストイなど、青年時代からの人生の「道づれ」について論評している。「ジャン=ジャック・ルソー」では「生来が弱くてやさしく、なんら武装もしていず、虫ばむ苦しい病気に悩んでいた男」が突然の目覚めに襲われ、「みずからのうちに燃えていた反逆の天才と、みずからの思想の妥協しない論理」とのために、「ひとたびペンをとると、彼はもうとどまることができず、最後までゆきつくさずにはいられ」ず、「崩れ落ちてくる憎しみの雪崩の下で、理性の平衡を失ったり、迫害の妄想にとりつかれ」ながら、「その作品はつづく次ぎの時代の芸術を変えた」ことを伝えている。的確な人物理解に基づくやさしい愛情と共感が心地よく、読後はルソーを愛さずにいられなくなるだろう。

【①いかにして戦争を妨げるか?(山口三夫訳)から】
「真実や良識なしに建設されるものは、
崩壊するに決まっている」(P13)

「立ち上がることができるかぎり、
臥しているのは怠惰である」(P17)

「わたしは、すべての真面目な反論者に当然あるべき尊敬と
自己制御を保つことができない人々には、答えることを拒絶する」(P19)

「わたしが危険のことを語るからというので、
あなたたちは《人騒がせ》だとわたしを非難する。
恐慌をきたすことなく、危険に抵抗する力強い断固たる眼ざしで、
危険を正面から凝視することはできないものか?
目をそらし口をつぐむことは、
雄々しさの欠如だとわたしには思われる」(P22)

「さあ、諸君、真面目になりたまえ!
もし行動したくないなら、行動から身を引くがいい。
もし行動するのなら、行動の責任をとるがいい!」(P25)

「平和を欲するものは、それを守る手段を欲さねばならない」(P27)

「わたしの家は世界である。
わたしは世界の人びとの悲惨と罪悪に責任を感じる」(P28)

「わたしがソ連と言うとき、けっしてたんにロシアだけではなく、
世界の社会主義共和国の未来の『連邦』の核のことを言っているのだ(中略)
ソ連は世界の諸国民衆のもっとも燃える希望の娘であり、
われわれの夢の生きた化身であり、社会進歩のもっとも力強い実現である」(P28)

「(スピノザの格言)平和とは戦争のないことではなく、
それは魂の力から生まれでる徳である」(P29)

「彼らの意図がどれほど純粋であろうとも、
過去が彼らをつけねらっているのであり、
彼らは再び過去に崩れ落ちるであろう。
わたしは彼らと袂をわかつが、非難してではなく
(誠実な人間はそれぞれ自分の良心に従う)、
遺憾ながらであり、哀れみをもってである。
なぜなら、いつの日か彼らはけっして止まることのない
生命の波に見捨てられるのがわかって苦しむであろうことを
わたしは知っているからである」(P29)

【②新聞・雑誌掲載論文、メッセージ、アピール等
(山口三夫/波多野茂弥/蛯原徳夫訳)から】
普通選挙という大パレードがかつて幾百万の選挙人たちに、
四年に一度、よく事情を知った上で当選者を選び、
残りの立法期間中その当選者たちを管理する可能性を
保証したことがあったでしょうか?」(P42)

「生き生きした力で、思想の不断の圧迫者たちから
もぎ取る自由しか自由はないのです」(P44)

「われわれの生涯の夢はけっして実現されることはないでしょう、
なぜならそれは到達するものを超えて目ざすからです(中略)
それは前進しながら、証明されていくのです」(P45)

「行動して然るべき瞬間に行動しない者、
その者は戦う以前に敗れ去っている」(P52)

「国家は民衆に奉仕するためにできているのであって、
民衆が国家に奉仕するためではない」(P60)

「すべてのファシズムは支配を熱望する。
それらは平和という語を使うこともできる――
平和は今日あらゆる人びとの口にのぼり、
それは世論を屈服させるための武器でもある」(P61)

「好戦的こけおどしの圧力や、
われわれの行動を麻痺させた空約束や脅迫に味つけされた、
絶えざる言い逃れ遊びの圧力に屈しないでおこう!
民主主義は、すべてに対する、すべての個人、すべての民族に対する、
平等な正義への尊敬によってしか生きえない」(P62)

「ソヴェトの青年たちにおいて
もっともわたしの心を打つのは、
彼らの賛嘆すべき生命力、人生への、
ソ連と世界の建設への関心である」(P62)

「わたしがもっとも愛着し、
自分が兄弟のように結びつけられるのを感じているのは、
燃えるがごとき信念と自己犠牲にみちみちた
ソヴェトの青年たちにであると言わなければならない」(P66)

「人生は進歩のための、
前進のための絶えざる闘いです」(P68)

「(ロベスピエールの覚え書)
――目的は何か? 民衆のための『憲法』の施行だ。
――われらの敵は何だろう? 堕落した人間と金持たちだ。
――彼らはどんな手段を用いるだろうか?
――中傷と偽善だ。
――いかなる原因がかかる手段の使用を助長することができるのか?
――サンキュロット(過激共和派)の無知だ。
したがって民衆を啓発しなければならない。
しかし、民衆教化の障害は何か?
――日々のたぶらかしで民衆を迷わせている、金銭ずくの著作家たちだ…。
――民衆教化に他の障害はあるか?
――貧窮だ。
――いったいいつになったら民衆は啓発されるのか?
――民衆がパンを得られるようになるとき、
そして金持たちと政府が、民衆を欺くために
不実なペンや舌を買収するのをやめるときだ。
彼らの利害が民衆のそれと混ざり合うときだ。
――彼らの利害が民衆のそれと混り合うのはいつのことだろうか?
――けっしてない」(P101)

「自由は人類のもっとも貴重な共通の宝です。ずっとそうでありました。
われわれがこの宝を守るのは人類のためです」(P104)

【③演劇について(波多野茂弥・三木原浩・玄善允訳)から】
「あなたがたが誰であろうと、あなたがた自身であれ、
そしてあなたがたにふさわしい人物であれ」(P115)

「演劇とは本来、万人のための芸術であって、
ただ一人のための芸術などではないからである。
高い意味での『人生』に関する芸術、
人生を描き、これに活をいれる芸術だからである。
それは民衆の芸術であって個人のものではない。
もろもろの人生を、友愛へ、生きいきとした
実践的な『理想主義』へとみちびくことのできる
芸術だからである」(P127)

「美は讃えられてあれ!
美は、知性のあらゆる相違を超越している」(P144)

④真であるがゆえに私は信じる(蛯原徳夫訳)から
「ぼくはただ自分自身に対して誠実であろうとするだけである」(P149)

「ぼくは、万人のものであるわれわれの生命の底に、
『神』を見いだした」(P152)

「『生命』を眺めるには、
『生命』の全体で眺めなければならないのである。
みずからの本質の底まで見きわめるためには、
みずからの眼の一つを欠いてはならないのである。
感受性と理性とで見ることである。
そうすれば『神』が見えるであろう」(P157)

「『神』は全体であり、また偏在する。
『神』は感覚のすべてであり、
個々の感覚すべての総体である。
その実在性は、生命のいかに短い鼓動のうちにも、
絶えず確認される」(P157)

「ぼくは今は自分のこの世での役割が
幻覚(イリュジヨン)であることを知っている。
ぼくは自分の真の実存を思い出すことができ、
『理性』によってぼくの『神』にまで
さかのぼることができる」(P160)

「ぼくの建物を建てる前に、
基礎をしっかりすえたいと思った。
その基礎はぼくにとって本質的に(中略)
次ぎの二つの主要な問いに要約できた。
(Ⅰ)われわれはなんであるか
(本質的になんであるかであり、
かぎりないその詳細においてではない)。
(Ⅱ)われわれはいかに生きるべきか。
――それ以外のことは余分のことである」(P164)

「他の存在を見たり感じたり理解したりするには、
『存在』の底から他の存在を抱擁しなければならないのである。
そうすれば、すべてが『愛』となる」(P167)

「われわれの『理性』のほんとうの用いかたとは、
われわれの生の中心に、いつもわれわれの『神聖性』(神)を
感じさせることであり、われわれの苦しみのただなかにおいて、
そのつらさをやわらげ、われわれのよろこびのただなかにおいて、
その楽しさを清めることである」(P169)

「自己自身であらねばならないのであるが、
ただ自己自身全体であり、かつ(すこぶる困難なことであるが)
その自己自身に瞞(だま)されぬことが必要なのである」(P169)

「われわれの身のまわりにいる存在と
われわれの生との関係における、至高の真実とは、
自己犠牲である(中略)われわれは自己犠牲によって、
われわれの幻覚的なまぼろしを多かれ少なかれ、
『神』に対する愛の行為のうちに
完全に消してしまうからである」(P171)

「要約すれば、人間の理想は次ぎのものを協調させることである。

1 ほほえむ清澄さ、イロニークな平静。プラトンゲーテ、ルナン。
2 はげしい情熱(イタリア・ルネサンス)。
トルストイの慈愛。

それこそ真に生きることである。

われわれが『神』であることを知ること。
われわれが神聖な幻想の戯れであることを知ること。
明晰で鋭い眼をもち、好奇的で平静なほほえみをうかべて、
眺めていること。――そのほほえみは、
使徒のように信じやすくはなく、見たり触れたり疑ったりする。

しかし自分の役割に自己のすべてを注ぎこみ、
情熱的な生の力を汲みとること。

他人の役割を愛し、その役割を実現したり、より美しくしたり、
また劇をよりよくしたりするために、
演技をしている人たちに助力すること。
他人のうちにまで自己をひろげること。
行動し、愛し、与え、また自己を与えること」(P172)

「『芸術』とは魂たちのあいだの障壁を破って、
われわれをして『神』の他の役割(もしくは他の瞬間)であらしめたり、
また、よりゆたかな生から生きるための新しい力を汲みとらせて、
われわれの生を完成させたりするものである」(P173)

「不可能なことを望まずに、可能なことをなしとげよう。
不可能なことは、調和的で健全な魂にとって
――その魂がいかに偉大な場合であろうと――
異常であり奇異であり、したがって醜い。
可能なことには限りがない。すべてのものが
そこに含まれている」(P174)

「人間であろうではないか。
それがわれわれが神となる、最も確実なことである」(P174)

「『死』、ぼくがこれまで生き、書いてきたのは、それのためだ。
『死』こそぼくの行動の原則であり、ぼくの思想の源であった。
ぼくの言葉の厚いヴェールの下には、いたるところに『死』がいる。
ぼくの各ページに、『死』が書きこまれている。
ちょうどぼくのこころのように、『死』は物事の魂である。

なぜなら『死』とは、万能で完全な『生』であるからである。
『死』はぼくの真の存在〔実体〕を、ぼくに取りもどさせる。
『死』は、ぼくが容易に打ち勝てない幻覚を断ち切り、
『普遍的な生』の幸福な意識のなかに、ぼくを浸らせる」(P174)

「死は『永遠の生』に指一本触れることがない。
それどころか、『神』の存在を見えないようにするヴェールを剥いで、
その人びとのよろこびと力とをさらに増大する。
死はさまざまの障壁を破り、それによってその人びとは、
『神』が行ない、感じ、欲するすべてのことを、
自由に感じたり、欲したり、行なったりするようになる――
すなわち、その人びとは自由に『神』になるようになる」(P175)

「わが魂たちよ、愛そう。
われわれを愛そう。『神』を愛そう。
自己を他人に与える者は、自己を『神』に与えるのだ。
自己を『神』に与える者は、『神』である」(P175)

「しかし次ぎのことは忘れまい。
すなわち、われわれは現実の生を生きているということ、
また、われわれが演じている役割は、
それが現実の一片にすぎないがゆえに、
幻覚的なものであるということを。
『神』の法則に従って生きながらも、
この地上の法則も考慮してゆこう。
われわれ以外のものになろうとはしまい。
われわれの個人的役割を、できるだけよく演じよう。
それが個人的役割である、ということを
われわれが心得ていれば、それでじゅうぶんである」(P175~176)

「わが魂たちよ、天国はすべての人の心のうちにあるのだ。
ぼくの眼ざしが他の一つの眼ざしと行き会っただけで、
ぼくは他人ではなしに『神』を感じるのだ。
『神』とは魂たちが互いに触れ合う、道の交叉点である。
一つの生命的な魂がよろこびあるいは苦しみを感じるたびに、
その魂はそれをぼくのうちに感じ、
ぼくはそれをその魂のうちに感じるのだ。
その魂はぼくであり、ぼくはその魂である。
そしてその二人の神秘な婚姻――たとえ一瞬間のものであろうと――
から、隠れた『ユニテ』(単一性、統一性)が生まれる。
ただ一つの『魂』がわれわれに生命を与えている。
それはかぎりなく大きく、また多声学的(ポリフォニク)である。
そして『愛』はみごとな和音のきずなであるが、
その和音とは闘いと抱擁と双方でつくりだされるものである。
『愛』とは生命の火である。
その『愛』がなければ、すべては『闇』である」(P176~177)

【⑥道づれたち(宮本正清訳)から】
「人生をあるがままに見、
それをあるがままに言うことである。
理想主義者も現実主義者も、みな同じ義務を有する。
すなわち実際の観察、実際の事実、
実際の感情を根底にすることである。
この根柢の上に、彼らの思うがままに、
中産階級の家を建てることも、
詩の宮殿を建てることも、
写実主義の喜劇なり、あるいは英雄劇を書くことも、
それは彼らの自由である。しかし、まずその作が
しっかりと大地に足をつけていることが必要である!
その作が大地の生活に参加すべきである。
芸術家は現実を描くためには思いきって
それを真正面に見るべきである!」(P224)

「私たちの活動の分野がいかなるものであろうとも、
その分野において真理の奉仕者であろうではないか。
文学においても道徳においても、ひとしく改革が必要である」(P226)

「独立した真実な人物が、
今日ほど欠乏したことはいまだかつてなかった。
公けの主権が市民の獣群(むれ)に移ったということは、
個々人の精神的自由のためにならないばかりでなく、
それは世論という横暴な拒否権をもって彼らに向うことである。
すなわちただ一人の主人の代わりに、四千万の主人だ……」(P243)

「(シェイクスピアが)攻撃してやまない根本的悪徳は偽善である。
すべての民族がそれに苦しんでいる」(P245)

「大衆は偽の美徳と真の美徳との判別がつかなくなるか、
あるいは努力が少くてすむ前者を選ぶ(中略)
正しい人間は常にわるく見られる(十字架にかけられないにしても)、
なぜかというと彼は邪魔になり、
偽りの真理や偽りの美徳にたいして生きた非難だからである。
――最高の詩人たちは偽善をもっとも手強い敵とみとめた。
狩猟が国王の娯楽であるように、
偽善狩りは詩人たちの愛好する遊戯である」(P245)

「(ヴォルテールの言葉)
私たちは二日しか生きられない。
その日を、軽蔑すべき奴ばらの下で
匍(は)いまわって過ごす必要はない。
群集の偏見と戦う唯一人の天才と決意ほど
偉大なものはない」(P334~335)

「今日の芸術の性質が不自然で、病的で、
実のないのは、大地の生活に根をもっていないからである。
生きた人間、肉と血のある人間の作でなく、
『文学者』の作、紙の人間――
言葉や、色彩や、絵面や、額や、楽器の音や、
小壜につめた感覚の精で養われた人間の柵だからである。
そして真の芸術家は、
自分の芸術を売り物にすることを余儀なくされないためには、
彼らの芸術以外に、他の知的職業によって生活しなければならぬことが、
あまりにもしばしばある」(P339)

「不如意は精神にとって無益ではない。
あまりに大きな自由は悪い霊感者で、
思想を無力と無関心にみちびく。
人間には刺針が必要である。
もし彼の生命が短くなかったら、
生きることにそう急がないであろう。
時間の狭い制限の中に閉じこめられているので、
いっそう情熱的に反応する。
天才は障碍(しょうがい)を欲し、また障碍は天才をつくる。
才能者にいたっては、多すぎるほどである。
私たちの文明は、まったく無益な、それどころか
まったく有害な才能者どもで鼻もちがならない」(P339~340)

「芸術が、正確さや、文体や、技術的完全さにかけて
失うところがあっても、力と健康においてうるところがあるならば、
私はなんの憂いももたないであろう」(P340)

「(トルストイの言葉)
世界の第一の学問は、できるだけ害悪を少なく、
できるだけ善を多くするように生きる学問である。
世界の第一の芸術は、できるだけ少ない努力で、
悪を避け善を生ぜしめることを知る術である」(P340)

【⑦ジャン=ジャック・ルソー(蛯原徳夫訳)から】
「西洋人として彼ほど、東洋的な意味における法悦を、
完全に実感し得た人はいない。
それは『あらゆる他の感情を除き去った存在感』であり、
『自分が自分とからみ合う』場としての
実在(l'Etre)の底における精神集中である」(P383)

「彼は自分がなによりも第一に音楽家であり、
『文体においてもハーモニーがすこぶる大切であるから、
ハーモニーを明せきさのすぐ次ぎ、そして正確さの前にすら、置いている』と、
出版者レイへの一七六〇年の手紙で書いている。
ハーモニーを損わないためになら、必要に応じて、
物語の真実性をも犠牲にし、文法もすすんで無視したことであろう。
彼にあっては思想がリズムの後から来るのであった。
言葉を決定する前に、まず、節や文章が心のなかで歌うのである。
彼はみずからは意識せずに、すぐれた散文詩人であり、
フランス・ロマン主義の先駆者であった」(P386)

ガブリエレ・ダヌンツィオとドゥーゼ(蛯原徳夫訳)から
「私は彼に、ガリバルジーの盲目的な信奉者たちの気もちに逆っても、
その人物の生きた姿をありのままに浮かばせるよう、率直にすすめた。
その本当の気質や、欠点や、おかしな性癖までも伝えたとしたら、
そのほうがわれわれをさらにその人物に近づけたり、
その人物の英雄的な偉大さをさらに人間的なものにすることになる、と言った」(P435)

「もし老年というものになにか良い点があるとすれば、
それは熱狂する若い時には欠けていた、
自分に対する自由な批判というものをもつことができることである。
また、若い時には残酷にさかんに犯す、不公平さとか不寛容さとか
そのほかさまざまの無情さを、もう犯さなくなることである。
なにかのことで不和になったというわずかの影が、
どんなに多くの友情を消してしまうことであろう。
不和の影はみずからの道だけを歩き、
あとに何を残したかをふり返って見ようとはしない。
ふり返るときは、もう夜になっている。
そして友たちはもういなくなっている」(P441)