ロマン・ロランと生きる

フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)に関する情報を発信するブログです。戦中・戦後の混乱期に幼年時代を過ごした人々の間では、ロランは必読書だったそうです。人生の師と仰ぐ人も少なくありません。現代の若者にはあまり読まれていないようですが、ロランと同じ精神の家系に属している人は少なからずいるはず。本ブログがロランの精神的兄弟たちを結び付ける場になれば幸いです。

ロマン・ロラン自筆書簡【10】ソ連とのつながり


人間共和の実現を夢見て

コラはソビエト連邦で有名になりました。


フランスの作家ロマン・ロランの自筆書簡である。1936年6月17日付。生まれ故郷クラムシー在住の編集者ヴィロワン・グレ(Viloin-Goulet)に宛てたもの。自らの小説『コラ・ブルニョン』が、ソ連でいかに好評を得ているかを伝えている。

「コラはソビエト連邦で有名になりました。
ラジオでも放送されているし、芝居にもなっています。
来年にはモスクワの大劇場でオペラが上演されます」

ソ連では複数のロシア語版『コラ』が出版された。ロランの手紙によれば、ラジオで放送された短縮版の小冊子は10万部も印刷されたという。ロランは今回の手紙に同封して、モノクロの版画を収めたロシア語版『コラ』をグレに贈った(写真)。

ロランがグレに贈ったロシア語版『コラ』

ロランは1917年にロシア革命が勃発すると支持を表明した。実際にソ連を訪れた友人たちの見聞には、新たな社会建設への期待と熱狂、手段を選ばない派閥抗争への不安や憤りが入り混じっていたが、ロランは折に触れてソ連共産党を支持する立場を示した。

「わたしは共産主義者ではありませんし、
けっしてそうはならないでしょう。
わたしの気質、想念、存在のすべてが、
そのことに嫌悪を覚えるのですから。
しかしそれでも、わたしの共感が
ソヴェート・ロシアへ向かってゆくのは、
この国が古いヨーロッパのただなかにあって、
若い命と多産な自発性とに満ちているからです」
(1924年頃)※1

「(※ソ連では)何千、何万という男女が
――青少年のすべてが――
せめてよりよい世界の土台だけでも建設しようと、
喜んで身を犠牲にしている。
そのような国は、世界にここひとつしかない」
(1931年頃)※2

1934年には、ロシア(サンクトペテルブルク)出身のマリー・クーダチェフと再婚する。彼女の父親はロシア軍将校、母親はフランス公爵家の家庭教師だったが、父親不明の私生児として育てられたという。マリーの最初の夫クーダチェフ公爵は、ロシア軍将校として従軍の末、幼い息子セルゲイを残して病死した。

1935年6月、ロラン夫妻はモスクワを訪問。約1カ月間の滞在を終えて、ロランはその印象を日記に記している。

「この旅行でわたしに残った支配的な印象は
生命力の力強い流入であり、
この生命力は若々しく、溢れるばかりで、
自己の力への自覚と、自己の成功の誇りと、
自己の信念、使命、指導者への信頼とに輝きわたり、
この広大な民衆――ソ連の何百万という男女に滲み込み、
彼らを持ち上げているのである」※3

ゴーリキー邸でスターリン(右)と会見したロラン
みすず書房『写真集ロマン・ロラン』P164)

その後もソ連支持の発言が続く。

「ソヴェトの青年たちにおいて
もっともわたしの心を打つのは、
彼らの賛嘆すべき生命力、
人生への、ソ連と世界の建設への関心である。
というのも、ソ連が――その青年たちが――
ナショナリストであるというのは誤りである。
どこにもソ連ほど人間的連帯感、
人種・民族の平等感が自然なところはない」
(1936年11月 革命十九回記念日に)※4

「わたしがもっとも愛着し、
自分が兄弟のように結びつけられるのを感じているのは、
燃えるがごとき信念と自己犠牲にみちみちた
ソヴェトの青年たちにであると言わなければならない」
(1937年1月 ソ連へのメッセージ)※5

しかし、ソ連ではスターリンによる粛清の嵐が吹き荒れ、恐怖政治の暗雲が全土に広がっていく。ロランが期待を寄せた人間共和の新世界は死の不安に覆われてしまう。ロランは1937年12月の日記に次のように書き記している。

ソ連にたいするわたしの真の精神状況を
ここに書き記さなくてはならない。
わたしはみずからの存在の奥底から、
ソ連の忠実な擁護者であり、いまもそのとおりである。
わたしはその不屈の飛躍、
その力強くも継続的な発展を感嘆しまた愛しているので、
そこに、人類の社会的進歩へのもっとも確固たる希望を見るものである。
それゆえわたしは、この国を脅かすすべての敵に対抗して、
つねにその味方につくであろう」※6

「わたしが擁護するのは、スターリンではない。ソ連である。
――そしてこの国を代表する指導者がなにものであろうと、
スターリンであれ、ヒトラーであれ、ムッソリーニであれ、
個人崇拝にもまして有害なものはなにひとつありそうにもない。
わたしが支持を寄せるのは、自由にして、みずからの運命の支配者である
諸国民の大義なのだ」※7

これ以後、ロランはソ連とその指導者について弁護せず、さりとて批判もせず、ただ沈黙を守ることになる。そうした態度は「臆病者」「卑怯者」との非難を呼んだが、妻マリーの息子セルゲイがソ連におり、軽率な発言は彼の身に危険がおよぶ恐れもあった。

マリーの息子セルゲイ(左)とロラン。
セルゲイはナチスとの戦いで亡くなった。
みすず書房『写真集ロマン・ロラン』P150)

1939年8月、ヒトラースターリンが手を結ぶ。独ソ不可侵条約の締結である。これにより、ロランに残されていたソ連へのわずかな希望も完全に打ち砕かれた。

ヒトラーが民主主義諸国にとって
この上なく脅威となってきたおりもおり、
われわれのだれひとりとして、このような裏切りを
――すべての誠意、すべての政治上の道徳性にたいする、
こうまで破廉恥な挑戦を――理解することはできない。
このような不徳義な条約にも、
なにか純然と政治的な理由があるのかと探しても無駄である。
この道徳上の卑劣さ、堕落は、
なにものをもってしても弁解できない」※8

セルゲイは「クレムリンの連中に逆らう発言をしなくてはならないばあい、わたしのことは気になさらないでください」※9とロランに耳打ちしていたが、そんなことできるはずもなかった。

1940年、パリ陥落。ロランは逃げる間もなくヴェズレーの自宅にとどまるしかなかった。ドイツ軍の将校が数人、ロランの自宅に同居することになったが、ドイツ軍にはロランの『ジャン=クリストフ』や『コラ・ブルニョン』、ベートーヴェン関連の著作の愛読者が多かったこともあり、一家は丁重に扱われた。ロランは晩年の著作群『内面の旅路』『第九交響曲』『ペギー』などの執筆に没入していく。

死の約1カ月前、ロランは旧知の作家で、共産主義の闘士として活躍したジャン=リシャール・ブロックに、次のように書いた。

ソ連の私の友人すべてに──
そして私にとってこんなにも親しい
ソ連の若人達にくれぐれもよろしく!」
(1944年11月8日付)※10

ロランは最期まで革命が掲げた理想に忠実だった。



※1 ベルナール・デュシャトレ著/村上光彦訳『ロマン・ロラン伝』みすず書房 P283
※2 同上 P329
※3 みすず書房ロマン・ロラン全集【19】』所収
「新聞・雑誌掲載論文、メッセージ、アピール等」村上三夫ほか訳 P37
※4 同上 P62
※5 同上 P66
※6 ベルナール・デュシャトレ著/村上光彦訳『ロマン・ロラン伝』みすず書房 P371
※7 同上 P372
※8 同上 P383
※9 同上 P387
※10 ロマン・ロラン研究所「UNITE【19】」P60