ロマン・ロランと生きる

フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)に関する情報を発信するブログです。戦中・戦後の混乱期に幼年時代を過ごした人々の間では、ロランは必読書だったそうです。人生の師と仰ぐ人も少なくありません。現代の若者にはあまり読まれていないようですが、ロランと同じ精神の家系に属している人は少なからずいるはず。本ブログがロランの精神的兄弟たちを結び付ける場になれば幸いです。

ロマン・ロランと自筆蒐集

ロマン・ロラン研究所の会報「ユニテ」(42号)に、拙稿を掲載していただいた。


ロランには敬愛する人物の自筆を集める趣味があった。ナポレオンの手紙やベートーヴェンの楽譜、ゲーテの水彩画、カントの草稿など、そのコレクションは多彩だったようだ。ユニテの原稿を補足する意味で、自筆蒐集に関するロラン自身の発言や友人の証言等を以下にまとめておく。

【ロラン自身の発言】
「マ女史から、私の誕生日のお祝いに
ベートーヴェンの肉筆をいただきました。
それはある約束の下にした署名にすぎません。
しかしベートーヴェンの死の1年前、
1826年2月24日のもので、
太い文字で、丸味をおび、文字と文字がよくくっついていますが、
少し神経質でせかせかした字体です」
(1891年2月3日付 母宛の手紙
宮本正清・山上千枝子訳『ロマン・ロラン全集【33】』
みすず書房 P455)

「ボンで、大の音楽収集家エーリヒ・リーガー博士を訪ねる(中略)
蓄財家一流の楽しみぶりで、金庫から引き出してはぼくの前に、
世界最高の作品の自筆原稿を並べる(中略)

ぼくはこれらの驚異に与える時間がわずかしかないのを、
教授は楽しむにまかせてくれる気になっているらしいだけに
ますます、苦々しく残念に思う(中略)
ラファエッロのそれと同じくこのジャンルでは完璧な、
J=S・バッハの美しい筆跡。ハイドンの繊細な筆跡。

ベートーヴェンの初期の作曲の子供っぽい下手な筆跡、
後期のは驚くほど神経質で知的、ほとんど押しつけず、
ペン先が跡をとどめ、
ただ重々しい注がペンか赤鉛筆で強調されているだけである」
(山口三夫訳『ロマン・ロラン全集【26】』所収
「ドイツ旅行・イギリス旅行」みすず書房 P316~317)

「(シェイクスピア博物館は)ゲーテあるいは
ベートーヴェン博物館ほどの興味を全然もってはいない、
というのもシェイクスピアの自筆が一つもないからだ。
彼の筆跡として知られる唯一の見本は、
さまざまの博物館に分散しいている五つの署名
(ストラットフォードに一つ、オクスフォード大学図書館に一つ)と
三語――≪私によって署名(あるいは承認)。W・S≫であり、
これは彼の遺言の最後である(ロンドンに保存)」
(山口三夫訳『ロマン・ロラン全集【26】』所収
「ドイツ旅行・イギリス旅行」みすず書房 P327)

「(1892年4月7日)
ようやくワーグナーの手紙を手に入れました。
ヘルツェン嬢からそれを渡されました。
それほど読みにくくありません。
(それでも私にはわからない言葉がいくつかあります。)
しかし字体は美しく明瞭です。
ふしぎなのは、それがあまり「造形的」でないことです」
みすず書房ロマン・ロラン全集【32】』所収
「マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークへの手紙」
宮本正清/山上千枝子訳 P57)

「『狼』を書いて以来、
マインツでは私は攻囲の際の物品を蒐集することで愉しみました。
なかでも、数枚のアッシニア紙幣、
ドワレ、ルーベルなどの署名のある「攻囲貨幣」などを持っています」
みすず書房ロマン・ロラン全集【32】』所収
「ルイ・ジレ=ロマン・ロラン往復書簡」清水茂訳 P509)

「もしベートーヴェンの草稿が私の手に入ったら
(残念ながら私は彼の領収書を一枚もっているだけです)、
それとも大芸術家の貴重な記念品の何かが手に入ったなら、
私はそれを、プロシア国王にも、共和国大統領にも、
アカデミーにも、図書館にも遺贈したりはしません。
私はそれを一人の芸術家にあたえましょう、
将来、同じようにするという条件で。――芸術は私たちの富、
私たちの王国、私たちの遺産です。
私はそれが野蛮人の手に渡るのを許しません」
(エルザ・ヴォルフに 1908年7月10日付の手紙
みすず書房ロマン・ロラン全集【37】所収
「フロイライン・エルザ」宮本正清/山上千枝子訳 P491)

【片山敏彦の証言】
ロマン・ロランはユマニストである。
ユマニストには種々な意味が含まれている。
辞書を開けてみると人本主義者、古典学者、人道主義者、
古文蒐集家などの意味がある(中略)
最後の古文蒐集家の概念は、
多分ロランの唯一の蒐集癖であるところの、
古今の文化的偉人らの手蹟を集めている事実に当てはまる。
私はロランの家でカント、ゲーテベートーヴェン
ケプラーらの手蹟に接した」
(片山敏彦著『詩と友情』三笠書房 P146)

「昨夜はロランはピアノをひいて下さった後、
集めていられる沢山の哲人、文人等の実物手蹟を
一つ一つ見せて説明して下さったのです。
カントやライプニッツの書簡などもあり、
又ナポレオンの手紙やフランスの王様の手紙などもありました」
(1929年7月6日付、父・片山徳治宛の手紙
『清水茂著『地下の聖堂 詩人片山敏彦』小沢書店 P125~126)

「壁にかかったいくつかの額を指して、
『これはヘルマン・ヘッセの水彩画、
これはガブリエル・ブローのデッサン』と
いちいちロランが説明する」
みすず書房『片山敏彦著作集【2】』P246)

「ロランの書斎は、
ヴィラ・オルガの山側に面した二階の部屋である。
ロランの労作の雰囲気が、
そう広くはないこの部屋に充ちているかと思う。
壁もソファの上も本と紙とでいっぱいである。
ガンヂーがシー・エフ・アンドリウス、
ピアソンといっしょに南アフリカで写した写真、
その他、タゴール、ゴルキー、シュトラウスのそれぞれ署名のある写真」
みすず書房『片山敏彦著作集【2】』P247)

「ロランは本棚から一つの手紙を出して私の手に渡した。
二十三歳のロランがパリの小さな室から老トルストイに、
芸術家であることと、
社会的責任としての労働を果たすこととの矛盾に苦しんで
長い手紙を書いたときに、
あのヤスヤナ・ポリアナの悩める老人が
『目に涙を浮かべてそれを読み』善き老父の慈しみをもって、
それに答えた長文の手紙なのである。
――そうして若いロランの未来に
大きな暗示を投げたその貴重な手紙なのである。
私は『あなたの兄弟トルストイ』という署名をつくづく見た」
みすず書房『片山敏彦著作集【2】』P247)

「ロランは立ち上がり、
ピアノの側に点じてあった電燈を持って私たちの傍に歩いて来る。
――二つの大きな箱をかかえて。その箱の一つを開けて
天才らのオリヂナルの手紙や原稿をとり出して示される。
これがロランの――おそらくは唯一の――蒐集品である。

カント、ライプニッツの原稿。ヴァーグナーとの関係について
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークに与えたニーチェの手紙。
『この世で智恵のみが不滅だ。人間の心配、物事の空しさ』
というような意味の言葉だった。
『彼はニルヴァナを感じている』とロランはいったが、
私は昨日ロランがケプラーの自叙伝のことを話していたのを思い出した。
ベートーヴェンの第七シンフォニーのアンダンテの原譜。
ロランはそれを指して『ミー・ミ・ミ・ミー・ミー……』と
口で譜をたどった。
楽家グルックが友に与えた手紙は、
彼がフランスに旅行している間に
英国でその愛人の死んだことを知ったときの絶望を書いていた。
またモーツァルトはその手紙で、
生活の窮状を友に訴えて金の工面を頼んでいた。
(その手紙によって百五十フランを
友から送られたという説明書きが裏面にあった。)

ベートーヴェンの手紙はあの恩知らずの甥に与えた、
愛に充ちたもので『……お前のボタン(決してはなれない意)
ベートーヴェン』と署名がしてあった。
ロランはいった――

『まるで優しい母親のような気持ちで書いているね。
気の毒な、気の毒な老人!』
『神のみひとり慈悲深きものと呼ばれうる』という原稿もあった。

ゲーテの水彩画はローマの街角を描いた一色画で
空の中ほどに円い白い月が照っており、
街路を二、三の人が歩いていた。
それは『ゲーテ的』なものであった。
ゲーテの手紙はヴィルヘルム・フォン・フンボルトに与えたもので、
インド思想について論じていた。
ゲーテはインド思想の無形式な混沌的なことを『懼れて』いた。
ロラン――現在、インドに関する仕事に沈潜している老ロランは、
そこを私に示して微笑した。

いま一つの箱にはフランス人のものだけがはいっていた。
(ただ一つドイツの詩人ライナー・マリア・リルケの手紙が
この箱にはいっていることに私は気付いた。
――まるでリルケがフランスの詩人であるかのように!)

フランスの王らの手紙。ナポレオンの手紙。
その他ボアローヴォルテールらの原稿や手紙があった。
また近代の詩人たちのものも」
みすず書房『片山敏彦著作集【2】』P274~276)

【上田秋夫の証言】
「(1928年9月)
ロランは濃紺の服を着て、大きな画嚢を抱いてあらわれた。
そして静かにゲエテやベエトーヴェンやシラーの手稿を拡げた。
カントやライピニッツやニーチェの手紙もあった」
(『上田秋夫詩集(1974)』所収 随筆「戒壇」 P236)

【米国人ルシエン・プライスの証言】
「(1927年)
彼は私達に原稿を一つと、
エトオフェンの手紙と、ゲエテから
アレキサンダア・フォン・フムボルトへ宛てた手紙とを見せた(中略)
ロラン氏は亦或る珍らしい古い本の中にある、
殆んど知られないゲエテの肖像を見せてくれた」
(ルシエン・プライス著/尾崎喜八訳「ロマン・ロラン訪問記」
「東方【7】」所収 P21)

ツヴァイクの証言】
「正午、ロマン・ロランの住まいを訪問した。
彼の住まいは六階の屋階で、狭く貧相であるが庭を眺望できる。
学生のようにこの小部屋に住んでおり(その片付けは家政婦が行う)、
飾りとしてはベートーヴェンデスマスク、たくさんの書物、
リヒャルト・シュトラウスの写真があるのみ。
この部屋には何か修道僧のような雰囲気があり、
手紙や新聞であふれた光景からは、すべてがここに集まり、
あたかも世界がことごとくここに流れ込んでいると感じられる。
ロランは、私にトルストイの手紙、そしてニーチェ
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークに宛てた手紙を見せてくれたが、
後者はロランにプレゼントされたものである」
(1913年4月2日の日記
藤原和夫訳『ツヴァイク日記』東洋出版 P97)

(1923年8月、ロマン・ロラン
カプツィーナーベルクにあるツヴァイクの城館を訪れる。
ツヴァイクの最初の妻フリーデリケの報告に次のようにある)
「ザツルブルク在住の数年間のうちで、
私たちの一番大事なお客様はロマン・ロランでした」
「(ツヴァイクは)愛する友人と書斎で苦心して集めた
古来の芸術家の自筆原稿に耽溺するみたいに見入るのでした」
(河原忠彦著『シュテファン・ツヴァイク中公新書 P134)

ベートーヴェン・ハウス】
ドイツ・ボン市にあるベートーヴェン・ハウスには、
ロマン・ロランが所有していたことにちなみ、
交響曲第9番・第三楽章の楽想が書き留められたもの。