ロマン・ロランと生きる

フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)に関する情報を発信するブログです。戦中・戦後の混乱期に幼年時代を過ごした人々の間では、ロランは必読書だったそうです。人生の師と仰ぐ人も少なくありません。現代の若者にはあまり読まれていないようですが、ロランと同じ精神の家系に属している人は少なからずいるはず。本ブログがロランの精神的兄弟たちを結び付ける場になれば幸いです。

ロマン・ロラン自筆書簡【7】戦いを超えて


戦いの記録

私のフランスの友人の一人が、
小冊子「戦いを超えて」の発行に
力を尽くしてくれています。


フランスの作家ロマン・ロランの自筆書簡である。1915年1月6日付。国際赤十字の便箋に書かれている。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発。スイスに旅行中だったロランはそのまま同地にとどまり、国際赤十字に申し出て「戦争俘虜国際事務局」で働くことにする。事務局の主な任務は、あらゆる国の捕虜とその家族との仲介役を務めること。ロランは毎日、午後2時から5時まで出勤して郵便物を読み、調査票を作成し、返事を書く仕事に従事した※1。ロランの友人で作家のシュテファン・ツヴァイクは「今日、無数の人々は、自分の兄弟や父や夫についてこの偉大な詩人の手で書かれた消息を、そうとは知らずに保存しているであろう」と綴っている※2

手紙には次のように書かれている。

「あなたのご理解に感謝します。
『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙に掲載された私の論文のうち、
最初に掲載された『ハウプトマンへの公開状』以外の
記事を入手する方法が、あなたより他にないのです。

目下のところ、私のフランスの友人の一人が、
小冊子『戦いを超えて』の発行に力を尽くしてくれています。
それが検閲を通るかまったく分かりませんが。
私は続きを完成させて(つまり戦争が終わるまで待って)、
それらの記事をまとめて一冊の本にするつもりです」

誰に宛てて書かれた手紙か分からないが、ここで言及している「フランスの友人の一人」とは、アメデ・デュノワのことだと思われる。デュノワはロランと同じクラムシーの出身。当時彼は、ロランの論文「戦いを超えて」と「戦争中の慈善」に自らの序文を付けた小冊子を発行する計画を進めていた。ロランの『戦時の日記』に関連記事が散見される。


「『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙は
フランスにはほとんど配布されておらず、
フランスの新聞はもちろん
あなたの論文を再録しようとはしなかったのです。
したがって、その論文の安価な小冊子をつくることが
必要であると思われます。もしあなたもそうお考えなら、
私にそうおっしゃって下されば、私がこしらえます」
(1914年11月の日記 ロラン宛のデュノワの手紙から
みすず書房ロマン・ロラン全集【27】』所収
「戦時の日記Ⅰ」片山敏彦ほか訳 P100)

「アメデ・デュノワが、
われわれのパンフレット(二つの論文
『戦いを超えて』と『戦争中の慈善』)に関する
検閲との悶着を知らせてきている。
検閲者はなんと作家のキストマッケルである!」
(1915年3月の日記から 同P286)

「政府は自分の邪魔になる独立不羈な人びとを
厄介払いする巧妙な方法を考え出した。
すなわち、彼らを動員するのである。
デュノワは次のことを書き送ってきた(三月二十六日)――
『親しい友よ、私は動員され、
明日ディジョンの第八看護兵隊に向けて出発します。
どんなことがあろうと、パンフレットは出版されるでしょう。
すべての準備は整っております(後略)』」
(1915年3月の日記から 同P286)

「『ラ・ヴィ・ウーヴリエール』誌
(パリのサンディカリズムの雑誌)の編集者
ルフレッド・ロスメルから――
『(前略)デュノワが動員されたとき、
あなたの《ジュルナル・ド・ジュネーヴ》紙の
二つの論文をいれた小冊子の出版を
確かなものとする世話を私に託しました。
それについては残念ですが、
申し上げるべき新しいことは何もありません。
校正刷はあいかわらず《協議会》の管理下にあります(後略)』」
(1915年5月の日記から 同P352)

「彼の小冊子(私の小冊子だ)はやっと出ようとしているが、
検閲によって手足をもぎとられてである。
序文213行のうち120行が飛んでしまった――
『つまり、重要なところは全部です。』
私の文章も切り取られている(中略)
けれどもデュノワは、
ただ友人たちにのみ手渡すべき、
検閲なしのものを150部つくった」
(1915年6月の日記から 同P423)

「やっと、アメデ・デュノワが出版した小冊子――
私の二つの論文『戦いを超えて』と『戦争中の慈善』に、
彼の序文をつけたもの――を一部受け取った。
この小冊子は、去る二月からずっと、
検閲の査証を待っていたのだ。
そしてよくしこまれた検閲が、
やっとその査証をあたえたのは
(多数のおびただしい削除をして)、
『戦いを超えて』を全文再録している
マシスのパンフレットの出版を許した
(おそらくは扇動した)のちなのだ。
動員されているとはいえ、
デュノワは、この小冊子の初めにつけた
『出版者の覚え書』によって、
勇気をもって抗議している。
マシスに関し、またわれわれに関して、
汚らわしくもなされたその処置の不公平に、
彼は読者の注意を引いている。
彼はさらに、マシスがデュノワの小冊子の
校正刷について通知を受けていたことを、証明する。
なぜなら、マシスはリープクネヒトに関するノートを
再録しているからであり、このノートは
原本には存在しなかったのだから。
この無分別は、検閲以外の仕業たりえないのだ(中略)
デュノワの小冊子は、
ジュネーヴの『戦争俘虜国際事務局』のために、
二十五サンチームで売られている」
(1915年8月の日記から 同P464)

ロランを誹謗した小冊子の例(筆者所有)。
ロランは中傷に一切反応しなかった。
(左)アンリ・マシス
「フランスに敵対するロマン・ロラン」1915年
(右)シャルル・アルベール
「戦いを超えて ロマン・ロランの弟子たち」1916年

1915年11月、ロランは戦争の終結を待つことなく、オランドルフ社から16の論文等を収録した単行本『戦いを超えて』を出版した。ロラン自身の報告によれば、フランスの全新聞と書店のボイコットにもかかわらず、この本は出版からわずか10日間で1万5000部が売れ、1カ月余りで50版を重ねた※3・4

「この『戦いを超えて』によって、
ロマン・ロランは裁かれ、愛され、憎まれもした。
これらの有名な論文が発表されるや、
もはや誰も無関心でいたり、
知らぬ顔をしているわけにはゆかなかった。
人々は、あるいは裏切者を憎みはじめ、
あるいは《不吉な一時代における精神の自由な象徴》
(ピエール=ジャン・ジューヴ)とみなして、
その人を尊敬しはじめたのである」
(モーリス・デコート著/渡辺淳
ロマン・ロラン理想社 P220)

その後も戦争は続いた。ロランは1919年、『戦いを超えて』の続編となる『先駆者たち』を出版することになる。

※1:ベルナール・デュシャトレ著/村上光彦訳『ロマン・ロラン伝』みすず書房 P184
※2:みすず書房『片山敏彦著作集【2】ロマン・ロラン』P80
※3:ロランによる1915年12月14日付の手紙
宮本正清・山口三夫訳『ロマン・ロラン全集【37】』所収
「二人が出会う ジャン=リシャール・ブロック=ロマン・ロラン往復書簡」みすず書房 P299
※4:ロランによる1915年12月31日付の手紙
宮本正清・山上千枝子訳『ロマン・ロラン全集【35】したしいソフィーア』みすず書房 P543