ロマン・ロランと生きる

フランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)に関する情報を発信するブログです。戦中・戦後の混乱期に幼年時代を過ごした人々の間では、ロランは必読書だったそうです。人生の師と仰ぐ人も少なくありません。現代の若者にはあまり読まれていないようですが、ロランと同じ精神の家系に属している人は少なからずいるはず。本ブログがロランの精神的兄弟たちを結び付ける場になれば幸いです。

ロマン・ロラン自筆書簡【4】サン=プリ家①


愛弟子との出会いと別れ

ジャンへの愛情はこれ以後、
わたしたちにとって絆です!
わたしはわたしの内面生活において
親愛なかわいい道づれに場所を保つでしょう。


フランスの作家ロマン・ロランが唯一、自らの「愛弟子」と呼んだ人にジャン・ド・サン=プリがいる。彼は1919年2月、インフルエンザのため、22歳の若さで世を去った。この自筆書簡は息子を失った母親と、兄を失った弟ピエールに宛てて、師のロランが書いた慰めの手紙である。みすず書房ロマン・ロラン全集』の第38巻に、山口三夫訳で収録されている。

「1919年2月27日 木曜日

親愛な夫人、親しいピエール

あなたたちのお手紙に深く感動いたしました。
――そうです、ジャンへの愛情はこれ以後、
わたしたちにとって絆です!
わたしはわたしの内面生活において
親愛なかわいい道づれに場所を保つでしょう。

ご子息の友情に反対しえた人びとは今や、
いかにこれらの友情が真実であり
忠実であったかを見たにちがいありません。
――あなたはひじょうに悲しんでおられますが、
親愛な夫人、しかしまたこの知性、
英雄精神、純愛の純粋な光があなたから出たことを
誇りに思っておられるにちがいありません。
それがわたしたちの間に現われたのが
いかにわずかであったとしても、
この光はわたしたちのなかに優しさを、
宗教的な明るさを残しています。

どうかわたしの敬意にみちた
心からの友情をお信じください。

みすず書房ロマン・ロラン全集【38】所収
「ジャン・ド・サン=プリへの手紙」山口三夫訳 P376)


ジャン・ド・サン=プリは1896年生まれ。弟のピエールは1901年に生まれた。サン=プリ家は南フランス出身の貴族で、兄弟の父親はセーヌ州の次席裁判長を務めていた。母方の祖父はドレフュス事件を解決に導いたエミール・ルーベ大統領である。母親は熱心な平和主義者で、ロマン・ロランの妹マドレーヌなどとともに平和運動に参加していた。

ジャンはソルボンヌ大学の哲学科を卒業した英才だったが、彼の素朴な人間信頼は第1次世界大戦により裏切られる。ジャンは知人に次のように述べている。

「十八歳になるまで(※つまり1914年の第1次大戦勃発まで)、
ぼくの人生は、人間への限りなく広い、
全面的な信頼が放つ大光明に包まれて、
輝かしく上昇していったのです。
ぼくは人間の友愛を信じ、真理を信じ、人生を信じていました。
世界がぼくには、
その進化の目標まぢかまで来ているようにみえていたのです」
(村上光彦訳「ロマン・ロラン全集月報【31】」P7)

「現実は、あの苛烈な平手打ちでぼくに答えました、
――戦争でもって。なにもかも崩れ去りました。
ぼくは一朝にして、もうなにごとも信じなくなったのです。
〈真理〉〈革命〉〈理想主義〉――嘘だ、嘘だ、嘘だ!
人間の生命を救いえないものは、卑怯な人間が
現実を見ないですむようにでっちあげた致命的な虚偽にすぎず、
愚弄、幻想にすぎないと思えたのです。
現実とはもはやぼくにとって、
人間の苦悩、人間の死でしかありませんでした」
(村上光彦訳「ロマン・ロラン全集月報【31】」P7)

当然のものとして受け入れられていく嘘と腐敗のけがらわしさに、純潔なジャンの魂は窒息しそうだったに違いない。孤立感から逃れ、折れそうな心の支えを求めるように、彼は愛読していた『ジャン=クリストフ』の作者、ロマン・ロランを訪ねることを思いつく。1917年8月、ジャンは紹介者も立てずにロランに手紙を書き、スイス・レマン湖畔のロラン家を訪ねた。

欧州の調和を訴え、反戦の立場をとるロランには敵が多かった。どこにスパイや暗殺者が潜んでいるか分からない。しかしロランは、素性も分からない未知の若者を受け入れて語り合う。初めての出会いは2人に深い印象を残した。ジャンの弟ピエールは次のように伝えている。

「《わたしはこの若い青年に自分の姿を再び見た》と、
ロマン・ロランは『戦時の日記』に書きとめる。
《彼の寛大な熱烈さはわたしをよろこばせまた苦しめる、
なぜなら、わたしに二十歳のころのわたしの幻想、
わたしの苦悩を思い出させるからであり、
わたしは彼に免じてやりたい多くの試練を予見する。》

ジャン・ド・サン=プリのほうでも、ルーズリーフに書きとめる――

《ぼくはロマン・ロランに、混乱したまま、
自分のすべての苦しみ、フランスを締めつけていたあらゆる圧迫、
人びとが埋没させられているあらゆる虚偽……を語った。
彼はよく聴いてくれた。それから今度は彼がなおも希望する
あらゆる理由を語った――(後略)》(中略)

ロマン・ロランのそばで、ジャン・ド・サン=プリは
生きる希望と意欲を再び見出す――二十歳の時には、
この上なく絶望している者が
自分はすっかり死んだのではないと感じるためには、
細い一束の光が日々の夜を射し貫くだけで充分なのだ!
彼がスイスから帰ったとき
顔の上には全く新しい歓びが輝いていた」
みすず書房ロマン・ロラン全集【38】所収
「ジャン・ド・サン=プリへの手紙」山口三夫訳 P348)

ジャンはロランの勧めで反戦雑誌『ドマン』に詩や論説を発表する。同誌に初めて掲載されたジャンの論説「フランスの知識人について」にはこうある。

「政治家も知識人も我が身の保身だけから戦争に反対しないのだ。
呪われた政治家、知識人よ、彼等は利権屋で、嘘つきだ。
人民はまだ、女優や営利やえせ科学に汚れてはいない。
人民は新鮮な空気を求めている。
人民諸君、君たち自身の手で、この支配に終止符を打て。
月給取りの学者などに、自分の行動理論をたずねたりするな。
全身全霊をあげて行動し、考えるのだ。
虐げられた人民諸君、最近ベルグソンは、
いかにも彼らしい静かな口調で友人に語っている。
『三年もたてば、終戦の検討に入れると思いますよ』
こんなほらは信用しないことだ」
(北条常久著『種蒔く人 小牧近江の青春』筑摩書房 P109)

青年らしい、ムチのような言葉が並ぶ。ジャンは若手の反戦活動家として注目を集めるようになるが、第1次大戦の終結を見届けた後、インフルエンザにより命を落とした。享年22歳。ロランはこう書き残している。

「小公子ハムレットでありサン=ジュストでもあった、
われらのジャン・ド・サン=プリは、
われわれの心に炎の航跡を残して、
われわれのあいだを通り過ぎて行ってしまった、
弱々しいが燃えるような青年であった」
みすず書房ロマン・ロラン全集【18】』所収
「先駆者たち」山口三夫訳 P205)

「彼(※ジャン・ド・サン=プリ)のことを思えば思うほど、
彼の死が私にはつぐないようのない喪失だと思われる。
死ぬのが彼ではなくわれわれであるべきだったのに。
われわれはわれわれの役目をいちおう果たしてきていた。
そして彼は、私の息子のようだった。
明日の道を照らすはずの、私の思想の種子だった」
(1919年4月24日付の日記 
みすず書房ロマン・ロラン全集【30】』所収
「戦時の日記Ⅳ」村上光彦ほか訳 P1821)

「今年(※1919年)という死の年はまた、
私の最もすぐれた若い友の一人をも奪った。
私の愛弟子ともいえる唯一人の人
(これは私のように、他人の自由にたとえわずかでも影響を与える、
というようなことはけっしてしたくない人間にとって、
『弟子』という言葉が使えるかぎりにおいてであるが)、
私の弟、私の思索の後継ぎであり、語り明かす相手である者――
親愛なジャン・ド・サン・プリである」
(1919年12月の日記
みすず書房ロマン・ロラン全集【31】』所収
「日記抄」蛯原徳夫・村上光彦訳 P551)

ロランはジャンの死後も、サン=プリ家とのつながりを大切に守った。

ジャンの肖像(ロマン・ロラン全集編集部
『写真集 ロマン・ロランみすず書房 P97)

みすず書房ロマン・ロラン全集【38】所収
「ジャン・ド・サン=プリへの手紙」山口三夫訳から】
「あまり早く行動に加わることは避けなさい――
あなたの魂の自由な発展を歪める危険があるでしょう。
よく知りよく制御するために、なお数年、
集中の歳月を自分のために取っておきなさい。忍耐です!
再建の時代に、あなたの任務は大きいでしょう」
(1917年8月14日付 P349)

「あなたのなかにずいぶん若い弟を認めたからこそ、
あなたにわたしの試練のいくつかを免れさせたいのです。
しかしそれがわたしにできないとしても、
わたしの愛情はあなたについて行くでしょう。
あなたは高潔な若者です。
あなたの奥底にわたしは多くの隠された涙を見ます。
しかしその泉は愛と苦悩から出来ています。
そして二つを奪われるよりは二つとものほうがいい。
それゆえこの泉がけっして涸れませんように!」
(1917年8月15日付 P350)

「もし何かわたしについて知りたいこと、
あるいは親密に言いたいことがあれば、
――扉をたたきなさい。扉は今やあなたに開かれている
――そしてわたしの信頼も」
(1917年8月25日付 P351)

「生はもっとも広大な知性をも無限にはみ出すものです、
もっとも広大な知性はそのことを知っており、
自分に見えないところでは、その触覚(アンテナ)の
神秘な接触によって、あるいは、ヘレン・ケラーのように、
空気のおののきによって導かれるに甘んじます」
(1917年8月28日付 P352)

「民衆を破壊へと興奮させないよう注意なさい。
先ず、一つの憎しみを別の憎しみと取り替えるのはよくない(中略)
群衆は行き当りばったりには鎖を解かれえない。
確固と、愛情こめて導かねばなりません(中略)
病める世界が誇らしげに隷従と痴呆を楽しんでいるただなかで、
あなたの精神の自由と平和を守りなさい」
(1917年8月28日付 P352)

「あなたが愛される天賦をもっているのは、
愛する天賦をもっているからです。
あなたが存在していることがよろこばれるのです。
あなたもよろこびなさい」
(1917年10月6日付 P353)

「わたしが勇気を失う危険はないと思う
――わたしの《勇気》は(これは一つの話し方だが)
成功から、さらには希望からさえ独立しているからです」
(1917年11月19日付 P355)

「わたしが生き行動しているのは、
つねにわれわれの手のとどくところにある聖なるもの、
永遠なるものを摘(つか)み、
他の人びとと分かつことに努めるためです」
(1918年5月18日付 P360)

「人びとは象徴を十全に把握してからでないと作品を評価しません
――これは読み返すわけにはいかない芝居ではとても危険です。
作品が象徴的であればあるほど、制作は現実主義的明確さを
もたなければならないと思います。範例はイプセンです」
(1918年6月11日付 P362)

「わたしにはいささかも
人生のなかにいる人びとを見棄てる感情はない。
忍耐強くない人びと、そう、彼らは天国が焼き肉になって
嘴(くちばし)に落ちて来ることを望みます。
そうではなくわたしは忍耐強い人びと、
沈黙している人びとの世界的な家族に訴えかける
――彼らは何世紀も前から、何世紀にもわたって、
揺るがされることなく、人類の運命をはこんでいるのです」
(1918年6月28日付 P363~364)

「わたしは彼(※レーニン)と握手はしない。
しかし彼は今日のもっとも力強い社会的意志であり
――明察力ある容赦しない支配者たちの種族、
ビスマルクやナポレオンたちの種族です。
ただ、彼の大義はいっそう新しい。
わたしは彼をみつめ、彼を理解する。ただし遠くから」
(1918年9月19日付 P369~370)

「プファイファー桿菌(インフルエンザ菌とも)に
気をつけなさい。まだ終わっていません。
国際赤十字の医者たちは、四十年来
ヨーロッパや近東の大きな流行病を追ってきて、
こんどの変形性の性格と、それが理由もなく、
合図もなく、あるいは穏かに、あるいは冷酷に、
気まぐれに立止まることに面くらうと告白しています」
(1918年クリスマス P372)

「熱の間わたしが考えていたのは
過去のことではない。過去はわたしを放っておく。
それは遂行された仕事です。おそらくはただ一つ、
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークの姿だけが
わたしには生きたまま、現存しています
――彼女の生存中よりももっと――
やさしい微笑と明るい眼ざしとともに。
――死者たちはわたしを後ろへ引き戻しません。
彼らはわたしとともに前進し、
わたしは彼らと現在を分かちあう。苦いパン。
しかしわれわれはいっしょにそれを食べるのです」
(1918年クリスマス P373)

「われわれの第一の語は今や、
《汝自身を知れ》ではなく《他人を知れ》であるべきだ(中略)
時代の致命的な悪徳は、同じ民族の人びと、
ましていわんや異なる民族の人びとの間で理解しあうことの不可能性、
――他人の思想や生命への利己的もしくは怠惰な無関心性、
――自己自身と自己のイデオロギーへの高慢な満足ではないか?」
(1918年クリスマス P374)

「(※ジャンの死の報せを受けてジャンの母親に)
これほど高潔な若者に出会ったことがありませんでした。
彼はフランス魂の花でした――
わたしが夢みていた、実在すべき、
だが彼よりまえにわたしが会ったことのない、
理想的な若いフランス人でした。
たくさんの詩的・精神的な力!
あふれ出ようと燃えたっていた創造的精気、
彼が愛している理念と友人たちのために闘い――
釣合わぬ闘い――と自己犠牲を熱望していた騎士道的な炎。
ああ! この六ヵ月、彼を駆って
あれほど多くのさまざまの作品で自己表現させていた、
ほとんど熱っぽい大急ぎが、
今やわたしになんとよくわかることでしょう!
まるで彼の行程が測られていることを
予見していたかのようです……

深く感じる苦しみにもかかわらず、
わたしはここで彼に会ったことを幸福に思います。
今や、わたしは彼をわたしのなかに引きとめ、
彼の姿が消えるようなことはさせないでしょう。
わたしは彼を愛していました。
これからもずっと愛するでしょう」
(1919年2月19日付 P376)